Cafepedia(カフェぺディア)とはcafe+encyclopedia(百科事典)を合成したもので、「百科の学術」つまり生物や物理、文化や社会、芸術や音楽…etc様々な「科学」をキーワードに、様々な方々を語り手に迎え、知的好奇心をくすぐる様々な話題をつまみにして、おしゃれなカフェで飲み物を片手に楽しい時間をすごそうという企画です。

カフェに参加している人だけでなく、その場に居合わせたお店のお客さん全員が、「科学」の話をBGMにお酒を楽しめるような雰囲気を生み出す。科学夜話”Cafepedia(カフェペディア)”はそんな粋な空間を目指しています。

2009年11月9日月曜日

報告書 第二十一夜「アフリカでわしも考えた~動物園長の旅行記~」

10月19日(月)、到津の森公園の岩野俊郎園長を語り手に迎え、科学夜話Cafepedia第二十一夜を開催しました。

今回は福岡地域の様々な施設の学芸員の方々が行っている「知のネットワーク」という取り組みとの協同開催ということで遠方からも多数の参加者がカフェに集まりました。


と、いっても普段と違っているのは語り手の話の前に「知のネットワーク」の取り組みの紹介と「カフェペディア」について言いだしっぺの私が話をするはめになってしまったという点です。話をした本人は軽~く話をしたつもりだったのですが、後でみなさんから「熱く語っていたね」との感想・・・。

さて、いよいよ岩野園長の出番です。
会場前面のスクリーンにはタイトルにふさわしくアフリカの写真が映し出されています。
が、話は岩野園長が「アフリカでわしも考えた」ではなく「ずっと考えてきたこと」ではじまりました。


岩野さんが園長をつとめる到津の森公園は民間運営から市民運営へと生まれ変わった動物園です。
その変化の中でこれからの動物園はどうあるべきなのか?そんな園長の「問い」とそれに対する園長が考え、見出した「答え」の話は聴き手をひきつけていきました。

以下の文章は私の曖昧な記憶と自分自身の解釈で記載しておりますので、実際に語られた内容とズレがある可能があることをご了承ください。

園長→「これまでの動物園はめずらしい動物がいる場所。そんなみんなのイメージがくずれない。」
確かに子どものころ、私にとっての動物園は絵本や図鑑に出てくる動物がいる場所でした。ゾウがいる、ライオンがいる、キリンがいる。本の中に出てくる動物が動いている。それに驚く場所でした。でもそれは本当にゾウやライオンやキリンだったのでしょうか?

話は園長が好きな梅原猛さんの「隠された十字架」の話になります。
園長→「われわれはものごとを一面から見がちであるが、裏側から見ると違う面が見えてくる。それが大事だ。」
なんとなくわかりますが、それと動物園がどう関係するの?とそのときは思っていました。


園長→「動物園で人はキリンやゾウという形しか見ない。ゾウの裏側を見る。どうすればいいのか?
ゾウをひっくり返して何かが見えるようにしたい。みんなの持つ動物園の固定概念を崩したい。」
「ゾウの裏側を見る」、「ゾウをひっくり返す!」どういうことだろう・・・。今、この報告書を書きながら考えてみると「ゾウの裏側を見る」には見る側が視点を変えなければなりません。「ゾウをひっくり返す」にはゾウを見せる側(見せるというのが正しい表現か自信がありませんが)が見せ方に対する考え方を変えること。つまりは見る側、見せる側、両方が変わる必要があるということなのではないでしょうか?

そのためにはまずどうするべきなのか?
園長→「動物園がいかに自然破壊を行ってきたか?ということを知る必要がある。」
チンパンジーを連れてくるのに動物園という環境に適応しやすい子どもをつれてくる必要がある。群れから子どもだけをつれてくるのは無理。群れを殲滅させて子どもを連れてくる。これまでの動物園がやってきたのはそういうことである。」
これはほとんどの人が今まで知らなかった、というより気づかないふりをしていたことだと思います。肉を食べるのにそこに屠殺という作業があるのを気づかないふりをしているようなものだと思います。


園長→「ゾウやチンパンジーを見たい=個体を見たい、そうではなく、形ではない生命があるものを生命があるように見る。」
ここまで話を聞きながら、前回のカフェペディアで岡本さんが語っていただいた量子の世界の話を思い出しました。
「量子の世界とはモノではなくコトである。」
園長の言う「生命があるものを生命があるように見る」ということはどういうことだろう?
”モノ”と”モノ”の間に”コト”があるのではなく”コト”があって初めて”モノ”であることができる。
社会生活を行うチンパンジーが群れから切り離されて育てられた時、うまく繁殖ができないそうです。なぜか?群れと言う社会生活の中で学ぶ繁殖行為を学ぶことが出来ないからです。
つまり社会生活という”コト”があって、チンパンジーという”モノ”になりうるということではないでしょうか?

さらに話は続きます。
園長→「これまでの動物園は「楽しむ」アミューズメントであった、「楽しむ」ために「知る」に立ち戻り「楽しむ」必要がある。」
これは、論語にある「之を知るものは之を好むものに如かず、之を好むものは之を楽しむものに如かず」ということを反対方向にたどれば本当に「楽しむ」ためには「知る」という過程が必要であると言えるのではないでしょうか?

園長→「動物園のzooの語源はzoologyであるが現在の動物園にはロジックなところがない。」
園長を疑ったわけではありませんが、ちょっと調べてみました。
zooは zoological garden を略した言い方でzoologyの語源は、ギリシャ語でΖωο("animal") +λογος ("logos")だそうです。では"logos"とは・・・言葉、論理、真理の意味です。
「動物の論理」とは・・・学問的に動物を知るだけが動物を知ることではないような気がします。むしろ「動物の真理」としてのzoologyつまり、園長の言う「生命があるものを生命があるように見る」ことだと思います。これはどういうことか・・・?
語りの時間終了後のフリータイムで園長と、「チンパンジーは人と同じように道具を使うことができる」とか、どうしても人と比較して動物を見ようとする。それぞれの動物はそれぞれが自然界で生きていくためにその能力を持つ、そのことに目が行かないというような話をしました。
ぼんやりとしかイメージできませんが、生命があるように見るというのはそういうことなのかなーと思います。

園長→「二本足で立つレッサーパンダは立つのが当たり前、頭を抱えるクマはノイローゼである。それを売り物にするのはものだけを売っているだけである。動物園は行き詰っている。
チンパンジーのパン君がいかに哀れであるかを知らないと前には進めない。
パン君は社会生活を行うチンパンジーとしては繁殖できない。
チンパンジーの形をした化け物である。
チンパンジーの生活ができないのにそれをチンパンジーだと思う。
これは”もの”を見ているに過ぎない。僕らが見ているものの裏側を見る必要がある。」

ここまで、スクリーンの映像は最初と全く変わらず園長の話にみなさん引き込まれていました。
と、ここで「アフリカの話も・・・」
ということで岩野園長が岩野園長の視点で撮影した様々なアフリカの写真を見ながら、「アフリカで考えた」ことを話していただきました。


最後に岩野園長が描く、「日本人のための動物園、日本人の感性をふるわす動物園」。私が思い浮かべたのは水墨画や花札に描かれる動物の姿だったのですが、正しいイメージだったのでしょうか・・・?


いつものように講演後にはフリータイムということで岩野園長と話込んだのですが・・・。私が園長を独占してしまい申し訳ありませんでした。

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