Cafepedia(カフェぺディア)とはcafe+encyclopedia(百科事典)を合成したもので、「百科の学術」つまり生物や物理、文化や社会、芸術や音楽…etc様々な「科学」をキーワードに、様々な方々を語り手に迎え、知的好奇心をくすぐる様々な話題をつまみにして、おしゃれなカフェで飲み物を片手に楽しい時間をすごそうという企画です。

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2011年1月12日水曜日

報告書 第三十四夜「建築史家のお仕事~身近なたてものを見る眼~」

昨年11月24日に開催した第三十四夜の報告書です。
この夜は西日本工業大学の倉方さんを語り手に迎え、「建築」をテーマに開催しました。

私も仕事で「建築」に関わることが少なからずあるのですが、「建築」=「”建物”をつくること」というイメージで、見た目のかっこよさを考えるのが「建築」デザインということかなー程度にしか考えたことはありませんでした。

今回の語り手の倉方さんは建築史家です。まず、建築史家という肩書きの方と出会うことがはじめてです。建築史って○○時代に○○という建築様式があって・・・とか、○○という建築家は○○という建物をデザインしたとか、どちらかというと歴史的な記録を収集し、整理していくことだろうというのが、建築史という言葉を聞いたときの最初のイメージでした。

そもそもなぜ建築史が工学部の建築学科の一分野としてあるのか?今回のカフェぺディアはその話から始まりました。


建築士になるためには建築の歴史である建築史が必修なのだそうです。数学や物理にはその学問体系自身に歴史という分野がないのに建築ではその分野の一部分として建築史があるのか?例えば数学や物理の方程式を使う時にはどうやってその方程式が発見されたかという歴史の知識は必要ありません。なぜなら、方程式そのものが歴史を含んでいるからです。言い方を変えると発展してきた歴史の成果が方程式なのです。
それでは建築はどうなのか?建築は一方向に進歩してきたものではない。昔の建築でも心地よいということが多々あります。建築という概念の中には必ず人間が入ってきます。なぜなら、心地よいとか美しいとか感じるのは人間だからです。それじゃあ、人間そのものは進化しているかというと、進化しておらず、ただ過去の蓄積があるのみです。ということで「建築は進歩していない、なぜならば人間が進歩していないから」となるわけです。

これを聞いて、哲学思想などの分野にも通じるものがあると感じました。哲学思想においても古いものは全く使えないというものではなく、ギリシア哲学や儒教、老荘思想などなど大昔に考えられたものが未だに輝いていて、むしろ現在の哲学思想はそれをこねくりまわしているにしかすぎないと感じるからです(私は哲学思想を専門的に勉強したわけではありませんので、あくまでも素人の感じたこととしてお読みください)。それはやはり、哲学思想が人間そのもののことであり、その人間自体が進化していないからだこそなのではないでしょうか?それでは人間の進化とは何か…。とあらぬ方向へと思考がさまよって行きそうになりましたが、気を取り直して報告書を続けます。

さてそれでは、他の分野と違って、建築にはなぜ建築史があるのか?建築は進歩しておらず、現在においても過去の建築は変わらずに魅力あるもの、使えるものとしてあり続けるというわけです。
極端に言うと一つ一つの建築が独立した学問体系というか、存在であって、そう考えると建築史とは単に建築の歴史ではなく、無数に散らばる個々の建築という存在を建築史家が結び付け、一つの形として組み立て、そこから何かを見出して行くことであるように思えました。

そして話題は日本で最初に「建築」という分野を確立した建築家であり、そして最初に「建築史」を確立した建築史家である伊東忠太の話へと進みました。建築史家としての伊東忠太は法隆寺の研究を行うなど、日本で最初の建築通史を整理したそうです。建築の歴史を整理するということは、日本という国が昔からまとまりがあって国としてなりたっていたんだという説明となり、日本という国を定義し、国家を維持するという目的があったそうです。これを聞いて歴史とは何ぞやということを深く考えさせられました。


ですが、倉方さん曰く、伊東忠太がおもしろいのは建築史家としてではなく、建築家として生み出した建築なのだそうです。紹介していただいた築地本願寺の建築はお寺でありながら、外観はインド風のつくり、内部にはステンドグラスがあり西洋風と思いきや、イスラム風のアーチがあったりといろいろな地域の歴史を折衷したデザインの建築です。また震災祈念堂は寺や神社風でありながら祈りの場所として内部は天井が高く、教会のようなつくりになっています。伊東忠太の時代の建築はゴシック様式とかロマネスク様式とか全体を整えた様式で構成するものであったのですが、伊東忠太はいろいろな様式を折衷して作り上げていったわけです。

ということで現在、伊東忠太という人は建築史を語る正統な研究者としてまた異端の創造者としての二つの評価がされる魅力的な人なのだそうです。

伊東忠太は建築哲学という壮大なテーマで大学の卒論を書こうとしたのだそうですが、未完に終わっており、その後それに対するリベンジとしてでしょうか、3年かけて世界一周の旅をしたそうです。その旅は一人旅であり、建築とは何かを考える旅だったのではないかと倉方さんは語りました。

自分なりに世界をどう捉えるかを考えるのが建築家であり、そしてそこから新しい概念、思想を表現する。伊東忠太以前の建築家は○○様式をなぞるのみでしたが、彼は世界を旅し、自分なりの世界の捉え方を身に付け、それを建築として表現した最初の日本人なのでしょう。
建築家ではない私は「自分なりに世界をどうとらえるのか?」ということは「生きる」ということそのものではないのかなーと思います。私は生物学や生態学に興味があり、その視点で世界をとらえてきました。しかし、カフェペディアを通じて様々な人達に出会い、そして語り合うことで、私の世界の捉え方は大きく広がったように感じます。相変わらず、生物学や生態学がその基盤にあることは確かなのですが、その基盤をもっと俯瞰で眺めるというか、例えば森という環境を昆虫の視点で見たり、宇宙からの視点でみたりとか・・・。私の中での生物学や生態学の存在する位置が大きく変化したように感じています。伊東忠太は3年かけて世界一周をして自分なりの世界の捉え方を探しましたが、私は3年間のカフェペディアを通じて(なんと2011年2月でカフェペディアは3周年です)、ぼんやりと自分の世界の捉え方が見えてきたように思えます。そしてそれはこれからもさらに変化していくように感じています。
さて、建築史家としての倉方さんは伊東忠太の研究を通じて、なぜこの人はこんな建築を作るのか?なぜこの人はこんな風に世界を捉えているのか?ということに興味が進み、今は現在の建築家と実際に会い、語ることを積極的に行っているそうです。


倉方さんが行ったおもしろい試みを紹介していただきました。建築家が影響を受けた本について語る「建築家の読書術」というイベント(本にもなっています)では、ゲストとして建築家が招かれるのですが、建築の話は一切せずに、好きな本についてひたすら語ります。一人の建築家が紹介する本のテーマはばらばらだけど、話を聞いているうちになんとなく全体がつながってくるのだそうです。
倉方さんは建築とは建築物や建物とは違うものであり、建築家が世界をどう捉えるか、そしてそれをどう世界に投げ込んでいくか。ということであり、そうした自分なりの世界観をつくるのに本はすごく役立つということを語られました。私も昆虫、植物、宇宙などの自然科学系の本から様々なマンガまで様々な本をテーマからすると無秩序に読みますが、不思議と自分の中ではその一つ一つがつながっています。あとはそれをどう世界に投げ込んでいくのかというところですが…。



建築をどう見るのかという点に話は進みました。
これは、倉方さんの研究室に事前打合せと称して遊びに伺った際に出た話とつながるのですが、花の形を観察するときに花だけを見ていたのではその形の意味がわかりません。しかし、その花に昆虫がやってくるととたんにその形の意味が見えてきます。例えば、蜜を吸う昆虫に花粉が必ず付着するような花の形であったりなど、昆虫と花の関係性の中でその意味がわかるのです。建築も同じようにその建築があ場所に行って、その建築を見てみるとそこで生活する人との関わりから建築の意味がわかってくるのだそうです。
「建築物」が「buildings」と数えられる名詞であるのに対して、「建築」は「architecture」と数えられないもの、すなわち抽象概念です。その抽象概念である建築の読み解き方の一つが建築史であるのだそうです。「建築物」としてではなく「建築」としてみる。そういう視点でまちを見てみるともっと楽しめると語られました。



語りの時間の後は恒例(?)のアフターカフェぺディアです。今回は多くの建築家の方々が夜遅くまで語りあいました。残念ながら私は風邪をこじらせてしまい声が出なかったため、話を聞くだけでしたが・・・。次回は大いに語り合いたいと思います。

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