前回のカフェペディアでは”心”の進化がキーワードで、いろいろと考えることが多かったのですが、今回も臨床心理学がテーマということで”心”についてさらに考えをめぐらせる夜となりました。
「グレゴリー・ベイトソン」、菊池さんから今回のカフェペディアのテーマを伺うまで、全くその名を知りませんでした。臨床心理学の主流かというとそうでもなくて、ベイトソンの思索はいろいろな分野で理解、解釈され、活用されているようです(現在、ベイトソンの「精神の生態学」を読んでいますが、本当に幅広い内容ですが、読み手にとってそれぞれ解釈の仕方が変わってくるだろうなという感じがしています。)

「臨床心理学の分野で、ベイトソンはマニアックな話になります。」という菊池さんの”マニアック”という部分に惹かれてしまった私です。
幅広いベイトソンの思索ですが、今回は「コミュニケーション理論」、「ダブルバインド」、「学習理論」の3つのキーワードについて紹介していただきました。
まずは「コミュニケーション理論」。
動物園で子ザル同士がじゃれて遊んでいるのを見ていてベイトソンは思いついたそうです。
「じゃれる行為自体は歯をむき出したり、噛み付いたりと戦いの行為であるが、そこには行為をやっている方にも外から見ている側にも遊びであるということがわかる。”戦い”のようであるが”戦い”ではないことを伝える何かがある・・・。」
言われてみればそうです。
「アイシテイル」という言葉にも
「愛している」という言葉が発せられるときに、その言葉に「なんちゃって」という意味がのっていたり、でもそこには照れ隠しの意味があって、本当に「愛している」と伝わってたり。甘い言い方で「愛している」と行ってもその裏には「ふん!こいつをだましてやろう」という意味がのっていたりするわけで・・・。
つまりは情感や態度、関係性のレベルによって同じコミュニケーション表現(この場合は「アイシテイル」という言葉ですが)でも、意味が異なるということでしょうか。
私はメールや手紙で文章を書くときに非常に悩みます。メールなどでは文字だけでコミュニケーションをとることになるのですが、同じ文章表現であっても相手はきちんと自分の意図するように読み取ってくれるのか不安になります。面と向って話をする際にはこちらの表情や身振り手振り、相手の反応を見ながらそのあたりを推し量ることができるのですが、文字だけだとそれができません。で、結局メールなどの文章は事務的になってしまいます。そのほうが言葉そのものの意味だけになり、明確に意図が伝わるような気がするからです。でも、事務的な文章を相手が受け取ったら「なんか冷たい感じ」とか感じられてしまうのでは・・・などと思ったりもします。
・・・そうか!それで絵文字とかが発達してきたのか!とひらめきました。しかし、私は絵文字は使えません・・・。

さて、コミュニケーションにその状況によっていろいろな意味がのってしまうということで、ダブルバインドという状況が起きてしまいます。
ダブルバインドとは・・・例をあげていただきました。
精神科病院に入院している息子に母親が会いにきた。
久々にあった母親に息子が抱きついた。
母親は体をこわばらせた。
息子はそれを感じ、手を離した。
母親は「私のことが好きではないの?」と聞く。
息子は顔を赤らめる。
母親は「まごついちゃだめよ。自分の気持ちに素直にならなければ。」と言う。
その後、息子はパニックになった。
「好きになりなさい」といいながら「体をこわばらせる」、母親の行為と言葉は矛盾しており、その矛盾した状況下にありながら、その場から逃げられない状況ににある。これがダブルバインドの状況にあるということです。
例えば母親が子どもを怒った表情で褒めるというときに子どもはどう理解していいかわからず混乱してしまう。しかも母と子の関係から逃れられない(竹中直人の笑いながら怒る人を思い出してしまいました。)。そういう状態がつづくと心理的に病気になってしまう。
「本音はこうだけど、建前上こうしろ!」とか不条理なことを仕事だから逃げられずにやらなければいけない。などといった状況は社会人であれば結構出くわす機会があるように思えます。
・・・そうか!社会人のストレスというのもこのダブルバインド状況によるものが結構多いのでは!と、ひらめきました。
というコミュニケーションの矛盾が生み出すダブルバインドはマイナスな印象ですが、実はクリエイティブなものを生み出すきっかけにもなるそうです。
またまた、ベイトソン。今度はイルカを研究してひらめきます。

イルカが芸を覚え、その芸をすると餌がもらえる。
ある日、同じ芸をやっても餌がもらえない。
イルカはなぜもらえないのか混乱する。
イルカはやけっぱちになり、新しい行動をする。
そうすると餌がもらえた。
新しいことをすると餌がもらえると言うことをイルカは学習した。
ダブルバインド状況から脱するために新しい方法を学んだ。
新しい方法を学ぶことで、ダブルバインド状況から脱した。
ダブルバインド状況が新しい方法を生み出した。
うーん、どの表現が正しいのかわかりませんが、ダブルバインドが、その人が新しい段階へと成長するきっかけになったということでしょう。
「学習についての学習が行われた」ということだそうです。
すごくわかります。
私も結構、にっちもさっちも行かなくなるときがあります。と言っても、例えば仕事をどう処理していいかわからずににっちもさっちも行かないというより、心理的な場面でにっちもさっちも行かなくなるということです。中学か高校の教科書にでていた梶井基次郎の「檸檬」の状況です。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。」
というような状況です。
たぶん、このような状況は他者とのコミュニケーションにおけるダブルバインドではなく、自分の内部の意識同士でのコミュニケーションにおけるダブルバインドによって生じているような気がします。
カフェペディアをはじめいろいろなことを手広くやっているとそこから学習することがたくさんあります。ですが、その中で体験→学習という流れが繰り返されてくると、そのパターンの中で矛盾が生じてくることがあります。そうすると先の「檸檬」状態になってしまいます。その状況は長く続くこともあれば、すぐ抜け出すこともあります。「檸檬」状態を脱したときには、新しい世界が広がるというか、今まで見えてきたことが違って見えるというか、すごくクリエイティブな感覚になります。
ベイトソンの言う、「学習についての学習」というのはこういうことを言うのかなーと妙に納得しました。

今回、菊池さんの話を聞きながら、自分自身に当てはめて、いろいろ考え、新しく気づいた事がたくさんありました。講演後のいつものアフターカフェペディアの時間に、また長々と話込んだのですが、その中で、菊池さんは大学で学生のカウンセリングを行っていますが、学生が卒業時に菊池さんの元を訪れてあいさつにきたりすると、臨床心理士として相手に関わりすぎたと反省するそうです。あくまでも解決方法を見出し、抜け出すのは自分自身であり、臨床心理士はその中で出会う一要素に過ぎないということでしょうか。この言葉がすごくずっしり来ました。
私も子どもたちを相手に自然教室をやってたりしますが、成長した子どもたちが時々遊びに来るのをうれしく思ったりします。そのうれしさの中にはどこか自分自身との出会いがあったからこの子達はこう成長したんだというおこがましい気持ちがあるかもしれません。成長するのは子どもたち自身の力であり、私という存在はその成長の道の途中に転がっていた路傍の石にすぎないのですから。そう思うとまたさらに新しい学習の段階に自分自身が到達してような気がします。
菊池さんのやわらかく、しかし芯のある語り口調が、私自身が答えを見出す思考へといざなってくれたように感じた2009年、最後のカフェペディアの夜でした。
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